ノルウェイの森

ノルウェイの森」は、私が人生で頻繁に読んだ小説ベスト3に入る。
同じく村上春樹の「スプートニクの恋人」、川上弘美の「センセイの鞄」が残りの2本。

10代後半〜20代後半の現在にいたるまでの多感な時期(というには少々年を取りすぎているが)私に大きな影響を与えた作品と言っていいと思う。

ほんとうに、ことあるごとに、なんどもノルウェイの森を手に取った。

なんといっても、生きることと、死ぬこと、生きるものと死者がいつもワタナベ君の周りに混在し、死は生きることの対極ではなく、死は生のいちぶであるという、人生観が私は好きだった。
わたしたちはいつでも、キズキくんやハツミさんそして直子のように、死の世界にひっぱられてしまう可能性を孕んだ、ふわっふわとした存在だと思う。彼らのように死を選ぶのか、それともレイコさんやワタナベくんのように生の世界にとどまるか。その差はほんとうにわずかで、いつ反転してもおかしくないと思うのだ。
あいまいで、白黒つかない混在した世界観がこの小説の最大の魅力であり、登場人物それぞれが、一様に生と死をまとっているという点でとてもいきいきとして私の目には映る。

そんな大好きな作品の映画化ということで、否応なく期待は高まった今年。
さて、その映画版ノルウェイの森はどうだったかというと。

クソすぎ。。。

ワタナベくんと東京で久しぶりに再会した直子が、「わたしうまくしゃべれないの」と、まるでひそひそ話をするかのような小声でワシャワシャしゃべり始めた時点で、心が折れた。

「えーーーーーーーー!!」うまくしゃべれないって、かつての恋人キズキくんの死を未だに消化できていなくて、言葉をうまく選べないとか、対人恐怖とかそういう意味じゃないの??声がうまく出ないって意味じゃないだろーーーー!!

「濡れる」やら「ヤる」やら「セックス」やら「もちろん、そうありたいと思っている」やら、活字で見るととっても魅力的な会話やことばたちが、実写化され俳優たちを通して語られるとたんに、一気に安っぽく、登場人物全員がセックスのことしか考えてない、リビドーだけで生きている、うすっぺらくて自意識過剰な単なる中2病のひとたちの群像劇にしか見えなかった。

村上春樹のテキストは、しばしば文語体とか、英語を日本語に翻訳したかのような、と言われるが、まさにそうだなと映画を見て改めて実感。そのテクニックは、小説として読むととっても新鮮で、そしてクール(カッコいいという意味ではなく、冷淡なという意味で)な印象を受けるのだけれども、映像化してみると、そのリアリティのなさが浮彫になってしまい、いっきに陳腐になってしまうのだった。
たとえば、役者が日本人ではなくフランス人とかで、セリフもフランス語で、字幕で日本語のセリフを見るということになれば、すんなり呑み込めるし、テキストの良さも活きるのではないかと思った。

菊地凜子が「私濡れないの」とか言ってると、「こんな会話、だれがいつどこでするんだよ!」と即座に突っ込みたくなるが、仮に誰だろうジュリエット・ビノシュあたりが言っていれば、フィルターをいったん通しているので、すんなり受け入れられない気もしないでもない。

日本語をストレートに受け取ってしまうと、やはりちょっと、きつい。
それは、監督の手腕がとか、脚本の書き方がとか、演技が悪いとかそういうお話ではなく、作品の性質上仕方のないことなのかと思う。
演技とセリフの違和感を除けば、映像、音楽ともにとても美しかった。時代の描き方も、精密で楽しめた。